これまでのヘクトパスカルに掲載した論考、特にVol.1の「地唄における音階と調性理論」と、別掲のスコアを参照しながらお読みください。尚、このスコアは三絃・箏は九州系地歌演奏、尺八は琴古流のそれぞれある流派のものなので、演奏家によって多少差異があります。

「末の契」
 作曲:松浦検校(?〜1822)
 箏手付:浦崎検校(1776〜1848)
 ただし、一説によると、「荒磯伝ふ」以降:八重崎検校(1776?〜1848) ※注

〔歌詞〕(作詞:後楽園四明居 こと 三井次郎右衛門高英)
 白波の、かかる憂き身と知らでやは、わかに海松布(みるめ:見る目と掛けている)を恋すてふ、渚に迷ふ蜑小舟(あまおぶね)、浮いつ沈みつ寄る辺さへ、荒磯伝ふ葦田鶴(あしたず)の、鳴きてぞ共に。
(手事)
 手束弓(たつかゆみ)、春を心の花と見て、忘れ給ふな、かくしつつ、八千代経(ふ)るとも君在(ま)して、心の末の契り違(たご)うな。

構成:前唄―手事(マクラ・本手事)―後唄(全曲通して三下り)  
主調:G調――――――――――――→| 

※注:京風手事物といえば、その替手式箏手付が特徴なのであるが、本来は、本手式箏手付(いわゆるベタ付け:三絃の旋律をほぼなぞったもの)と替手式箏手付の両方行われ、京風手事物は一般に、後者のみが後世に伝えられていると考えられている。「末の契」の場合、浦崎検校が本手を、八重崎検校が替手を、それぞれ箏手付したと考えられ、現在伝わるのは、両者の合体と考えられている。なぜそのような特殊な箏手付になっているかは、曲調に起因するものと思われる。詳しくは後述。

〔分析〕
 「夕顔」の分析では、転調を中心に考察したが、「末の契」の場合、演奏して感じる、本当に無駄の無い、隙の無い曲、という印象を具体的に考察するために、別の視点からも分析していく。この曲は、いくつかの重要な「動機(音楽を独立して構成する要素の最小の単位)」を要所でうまく活用しており、2,3の旋律については、進行上の重要な鍵となっている。
 それでは譜面に沿って曲を具体的に見ていく。まず、無伴奏の唄のフレーズで始まる。その唄と、次の楽器の「シャン」から判断して、G調におけるドミナントでの半終止である。そのため、5小節目のEsなどはまことに不安定な印象であるが、「かかる憂き身」という歌詞の表現としては適切である。6小節目〜7小節目1拍目の、DからGの下降(完全五度)によって、主音に終止する。また、この完全五度下降は、後に述べる14〜15小節目1拍目の「動機a」の省略形ともなっている。
 6〜8小節目によって完全にG調が確立されるが、9〜11小節目ではまたもやEsが不思議な印象を与える。12〜13小節目のDからAsへの下降は、その流れを受けて主音(G)に落ち着こうとしているものである。これを「a'」として、14〜15小節目1拍目の、最初の重要な「動機a」を導き出し、Gに終止する。しかし、16小節目の「シャン」(4小節目と比較のこと)によってC調への転調をすぐに準備し、16〜20小節目はC調となる。21小節目のCは、C調の主音であるとともに、22小節目のAsと連携し、G調への回帰を目指すが、次の23小節目ですぐにGを出さないで、またもや不安定感を出す。27〜28小節目に「a'」を持ってきてさえ、29小節目でEsを出す。G調においてここまでEsを多用するのは、ドミナントでの半終止を中心に曲の進行がされていることを暗示するものである。心理的にGを求めながらもなかなか出してくれないもどかしさは、歌詞と併せて考えなければならないだろう。
 30〜31小節目で「動機a」を出すが、Gで終止してからすぐにDへ下降半終止して、33〜34小節目1拍目の、Dを中心とした「動機b」を導き出す。そこからやっとG調の確保に入っていく。37〜38小節目の三絃パートは、10〜11小節目の三絃パートと(Cの前のスリ上げの他は)同じであるが、箏(及び尺八パート)の手付は異なっている。これは、37〜38小節目の次の小節の音がEsなのに対して、10〜11小節目の次の小節の音がDであることと無論、関係している。後者ではすぐに「a'」を出すが、前者では39小節目のEsを経て「a'」を出している。要するに、そうすることによって43〜44小節目のGの同音反復によるリズム動機「動機c」に繋げ、G調の確保をする流れを作っているのである。40〜43小節目の箏の手付は、いつでもGに解決できるようにしてあって興味深い。
 45小節目にはDes(G調の音階外の音)が出てくるが、C調へ転調、というほどもなく、経過音と考えてよいだろう。45〜48小節目の三絃によって完全にG調が確保されるが、49〜50小節目1拍目のD調での「動機a」を導き出すために、48小節目2拍目から箏(及び尺八)によって準備がなされている。50小節目2拍目〜52小節目1拍目の三絃パートは、「動機b」の展開形(素材を育成・発展させた形)である。そして、ここまではD調である。52小節目2拍目から箏と尺八は、48小節目2拍目と同じように、53〜54小節目のG調での「動機a」を導き出す準備をしている。この「合」は、なかなか考え抜かれた作りとなっているといえよう。
 56〜57小節目でDに半終止し(唄パートで、ここがあくまでG調であることがわかる)、58〜59小節目1拍目の「動機b」をすんなりと出せるようにしている。61〜79小節目はD調。67〜68小節目で「動機a」の展開形を出し、その後すかさずGへの下降終止の形を整えるのだが、70小節目からの「動機b」によってそれを許さず、D調を維持する。ちなみに、71〜72小節目の尺八は、三絃と異なって「動機c」になっているが、そこまで考えた上でのことではなく、単に演奏の便宜上のことであろう。
 76〜82小節目は、三絃に、手事でも現れる「主題A」が出てくる。出だしはD調なのだが、79〜80小節目を、81〜82小節目で長二度上げて繰り返すことにより、見事にG調への推移をなす。
 83小節目から完全にG調に回帰する。ここからテンポを速めていくが、89小節目最後から90小節目1拍目、92小節目にそれぞれ「a'」が出てくる。これはあとでツナギ(前唄の唄部分の終わりとマクラの間の器楽部)でも重要な役割を果たす。そして94〜95小節目で「動機c」を出すところから「荒磯伝ふ」と唄が再開される。そして、ここからが、八重崎の作といわれる替手式箏手付となるのであるが、それまでのベタ付けによる曲想から、見事に歌詞と調和していることに気づく。そして、「荒磯伝ふ」までの部分のベタ付けも、歌詞を考えれば、替手式箏手付よりも歌詞をじっくり聴かせることができて、そのほうが望ましい、とも考えられ、こうした変則的な箏手付が今日に伝わっているのも頷けるものがある。
 100〜101小節目1拍目で「動機a」を出した後(つまり、下降終止した後)、導音(F)から主音(G)へあらためて解決し、102小節目2拍目〜105小節目1拍目に「主題B」が現れる。「主題B」の最後の1小節半は、D調ではなく、G調でのドミナントへの半終止である。そのため、次のフレーズへの運動性は保たれている。「主題B」が出る直前の、100〜101小節目1拍目の「動機a」までは裏拍を中心として「荒磯」を表現しているが、100〜101小節目1拍目の「動機a」及び102小節目2拍目〜105小節目1拍目の「主題B」によって、その切迫感を一時和らげる効果を出している。
 その後、114〜115小節目1拍目においてD調で「動機a」を出した後も、やはり導音(C)から主音(D)へ解決し、「主題B」の断片を出した後、118〜119小節目1拍目で「動機a」の展開形を出し(ここでG調に回帰している)、また導音(F)から主音(G)へ解決した後、「主題B」の展開形を出す(120小節目2拍目〜123小節目)。さらに、128〜129小節目でまた「動機a」を出した後、今度はGを反復し、130小節目2拍目〜131小節目で「主題B」の断片を出す。
 このように、堅固かつ考え抜かれた部分の後、133〜134小節目、135〜136小節目と、「動機c」を連続して使用し(「荒磯伝ふ」からの部分は、「動機c」によって開始されたことに注目すべし)、140〜141小節目でD調での「動機a」を出した後、ツナギに入る。ここは、83小節目からの合と同様、「a'」が効果的に用いられる。まず145小節目最後から146小節目1拍目に「a'」を出し、150〜151小節目で「動機c」を出した後、オクターブ下のDで半終止して一息つき、その後D調へ推移し、155〜156小節目1拍目で、D調でまた「動機a」を出し、162小節目までD調が続くが、163小節目最後から164小節目1拍目で「a'」を出し、G調に回帰する。そして、166〜167小節目1拍目で「動機a」の展開形を出し、これまでと同様、導音(F)から主音(G)へ解決した後、「主題B」の展開形を出して(168小節目2拍目〜172小節目)、ツナギが終わる。
 こうして詳細に見ていくとわかるように、このツナギは、「主題A」が出た後の83小節目から「荒磯伝ふ〜鳴きてぞ共に」の部分の展開部分と考えられる。しかも、動機や主題の繋ぎ方まで考え抜かれた作りになっていて、松浦の面目躍如といったところである。
 余談であるが、ツナギは、手事の一部として一般的には考えるのだが、実際に演奏していると、「前唄の後奏部」といった感が強い。器楽だけの部分であるからといって無条件に手事の中に含めるというのは、私はあまり賛同できない。音楽の構造から考えれば、マクラからを手事とするほうがしっくりくる。
 ただし、ツナギを手事の一部とするのは、江戸時代の歌本などに依拠する考え方で、論拠はあるのである。たとえば、前唄部の唄が終わって手事に入るまで器楽部分があったとして、歌本がそれを「合」としていない場合(例:この「末の契」等)は、すなわち前唄の歌詞が終わって「手事」と表記されるため、ツナギを手事の一部と歌本は扱っているという考え方である。しかし、前唄部の唄が終わって手事に入るまで器楽部分があったとして、歌本がそれを「合」としている場合(例:「楫枕」等)、一般的に「ツナギとしての合」などと呼び、手事に含めない。これは、整合性に欠けるといえまいか。あるいは、歌本が意識的に、曲に応じてそうした区別をしているのだろうか。しかし、「地唄概説」で述べたとおり、ある曲の構造分析が、歌本の年代によって変化しているものも多いのである。ゆえに、今時点での分析で、考えを柔軟にしてもよいのではないだろうか。そんなことを私は考え始めている。ツナギはあくまで前唄と手事を繋ぐ経過部分として考えたい。
 ついでなので、他にも最近、伝統的な分析に違和感を覚えるものを述べると、「宇治巡り」の手事にマクラがある、というものがあるが、それは本論とは直接関係ないので、またいつか考察したい。
 本題に戻ろう。そうして考えた場合、「末の契」の手事は、マクラ(手事の序)と本手事(狭義の手事、の意)から成っていて、チラシがあるとすることもあるが、他の京風手事物のような意味でのチラシは認められず、あったとしても、大坂手事物において「チラシ様の部分」といったような呼び方をする部分、そんな感じのものである。これについては後述する。
 173小節目のアウフタクト(弱起:メロディーが弱拍から始まることで、この場合、三絃パートの172小節目最後の八分音符のこと)から手事が、まずマクラから始まる。175小節目の三絃は、「主題A」のちょっとした変形である「A'」の出だし(incipit)である(移調されているので注意)。178〜184小節目は「A'」全体であるが、ほぼ「主題A」と同じである。「A'」を「主題A」の初提示時と同じ音高で出すために、マクラはD調で始まっているのである。そのため、「A'」も「主題A」と同じく、D調で始まり、後半はG調への推移となっている。
 191〜192小節目は、「A'」の前半部である。そして、194〜195小節目の「動機c」を含めた194〜198小節目は、「主題A」の前半部の展開形である。そこから205小節目までG調で進行し、206〜209小節目で「主題D」が出て、本手事への推移が始まる。この「主題D」の最初の2小節は、D調での「動機a」の展開形であることにも注目すべきである。そして、「主題D」を受けての210小節目2拍目〜213小節目1拍目の三絃の旋律の出だし(incipit)から、213小節目2拍目〜214小節目の「動機d」が導き出される。
 こうして、217小節目のアウフタクトから本手事が始まる。珍しいのは、同音反復で始まることである。それを受けて、221小節目2拍目〜222小節目で「動機d」を出し、さらに、224小節目〜225小節目1拍目、226〜228小節目の「主題D」の後半部の展開形で、その後の音楽進行の流れを作る。
 そして、237小節目2拍目〜240小節目1拍目に「主題E」(この後の手事の中で重要になる)が現れる。ここから掛合い(特定の旋律部分の応答形式の交互演奏)が始まるので、「主題E」は三絃独奏での提示となっており、効果的である。その後、「動機d」から派生した「d'」を、三絃が多用する(245小節目2拍目〜246小節目1拍目、247小節目2拍目〜248小節目1拍目、及び249小節目2拍目〜252小節目1拍目の中で三回連続使用)。この掛合いは、短い中断(250小節目2拍目〜252小節目1拍目)をはさんで271小節目まで行われる、長いものである。
 272小節目以降、その掛合いの流れを受けての推移主題を経て、279小節目2拍目〜283小節目1拍目で「主題E」の展開、283小節目2拍目〜286小節目1拍目で「主題E」の再提示を行う。そしてすかさず、286小節目2拍目〜294小節目まで、今度は「主題D」の展開を行う。300〜304小節目1拍目の打合せ(追い拍子)は、三絃が先導し、箏(及び尺八)が続く、という形となっている。
 304小節目2拍目〜305小節目で「動機d」を出した後、Gへ下降終止し、その下降終止形から、また長い掛合いに入る(〜334小節目、中断:316小節目2拍目〜318小節目1拍目)。その間もやはり「d'」が多用される(311小節目2拍目〜312小節目、313小節目2拍目〜314小節目、及び315小節目2拍目〜318小節目1拍目の中で三回連続使用)。さらに、321小節目2拍目〜324小節目1拍目で「主題E」の展開形が出されている。
 335小節目からは、新素材による曲作りとなっているが、そこにもさりげなく、355小節目2拍目〜356小節目に「動機d」、357小節目2拍目〜359小節目に「主題D」の後半部の展開形が挿入されている。
 362小節目2拍目からはC調に転調し、気分を変えるが、365小節目は、C調でのドミナント(G)への半終止であり、367小節目からのG調への回帰をスムーズにしている。
 手事部の分析に入る時に述べたとおり、京風手事物における一般的なイメージのチラシは、ない。チラシとは、手事から唄への経過的部分であり、京風手事物における一般的なイメージのチラシとは、手事の緊張感を、いったんテンポを緩め、それから徐々に速度を上げてペルペトゥウム・モビレ(無窮動)風になり、一気に盛り上げ、最後に徐となることによって、唄に入る準備をする、というものである。そういう意味で「末の契」では、手事終結部で一度テンポを緩めることはないので、京風手事物における一般的なイメージのチラシはない、と述べたのである。ただし、大坂手事物においては、いったんテンポを緩めることなく、手事から唄への経過的部分になることがあり、それを「チラシ様の部分」といったような呼び方をする場合がある。そういった意味で「末の契」には「チラシ様の部分」があると考える説もある。
 あくまで私見だが、「チラシ様の部分」があると考えた場合「末の契」は、松浦の他の諸作品の手事部分を比較してみた上で、そういった様式的特徴(どれぐらい大坂手事物の痕跡が感じられるか、ということ)を考えた場合、少なくとも手事が段構造 (大坂手事物に多い特徴) になっている「深夜の月」よりは後に作曲されたが、他の大部分の松浦作品(「深夜の月」以外の「松浦四つ物」を含む)の中では比較的早く作曲された、という推測ができる。あくまで様式上からの推測であり、証明はできないが、そんなことを考えてみるのも楽しいと思う。
 本題にもどる。390小節目アウフタクトから、後唄となる。後唄に入ってからも、前唄前半部と同様に、G調においてEsを多用しながら進行する。400〜409小節目はD調に転調するが、その1拍前から箏と尺八はD調への推移をなしている。410小節目からG調へ回帰するが、414〜416小節目は「主題A」の前半部から導き出されたもの(音高は変わっていないので、つまりD調)で、D調は419小節目まで続く。
 420〜422小節目はG調であるが経過的で、423小節目アウフタクトから、これも経過的なC調となっている。425〜426小節目1拍目はC調でのドミナント(G)への半終止であり、426小節目2拍目〜427小節目1拍目の流れからするとGへ下降終止しそうなのであるが、Gは出さずにDを重視している。これは、431〜432小節目1拍目の「動機b」を出す準備であると考えられる。ここまでの部分はD調というよりは、G調でのドミナント(D)を中心とした部分である。
 そして、441〜444小節目は「主題B」の断片なのであるが、丁寧なことに、それを出す前に、前唄において「主題B」を出す前に使われていた、主音(G)−導音(F)−主音(G)、という音形が、拡大(音価を長くすること)されて出されていることにも注意すべきである。
 それ以降は、Dが出てきたとしてもG調のドミナントでの半終止として、であり、そのことは451〜452小節目の「動機b」の再提示の際にも変わらない。これは「八千代経るとも君在して、心の末の契り違うな」という、それまでの歌詞よりも力強い心の叫びに呼応している。こうして考えると、前唄前半部や後唄前半部での不安定さとのコントラストが鮮明で、これも考え抜かれた上でのことといえるだろう。

 「末の契」は特別であるとはいうものの(後述)、概して松浦は、例えば菊岡が、どちらかといえば情緒に寄った曲作りをする(そのため、けっこう当たり外れのある)のに比べ、知的で堅固な曲作りをする傾向にある。京風手事物の開祖であり、一曲一曲に京都の様式の中で工夫を凝らしていて、作品にむらがない。そんな玄人好みのする松浦を、私は「日本のJ・ハイドン」と呼びたい衝動に駆られる。
 ところで、邦楽の古典曲の構造は、雅楽演奏家で、雅楽の五線譜化に努力したことで知られる、芝祐秦(しば・すけひろ)氏の命名によるところの「一部分形式」、すなわち、ある楽節から、気分的につながりのある次の楽節へと楽想を接続していくものが主流であり、曲全体として聴いた場合に不思議な統一感があるが、西洋音楽的な楽想の統一的使用は行われない場合がほとんどである。だからこそ、雅楽の最有名曲である「越天楽」が、雅楽の中では特異な存在であるといわれるのである(「越天楽」は、西洋音楽的に理解できるわかりやすい三部形式である)。それは、いくら知的な作風の松浦とはいえ、「末の契」において動機や主題の有機的使用をここまで徹底的に行っていることが、地唄の中では珍しいということを意味する(ただ、ある程度の有機的使用は、他の曲でも認められうる)。
 伝統邦楽において、西洋音楽的分析は不可能かつ無意味、と考える研究者が多いことは、正しいことだと思う。ならばなぜ、「末の契」において私がこのような考察の方法を採ったかといえば、矛盾するようだが、西洋音楽的分析が可能な地唄も存在することを知ってもらいたかった、ということである。
 私自身、伝統邦楽を学ぶまで、明治以前の日本には音楽が存在しなかった、と固く信じていた。もちろん、雅楽などの存在は知識としては持ち合わせていたので、より正確に言えば、鑑賞する価値のある芸術音楽の存在を否定していた。今にして思うと、前述のいわゆる「一部分形式」による音楽作法が野蛮なものであるという偏見を、ろくに伝統邦楽を聴きもしないで持っていたのである。
 しかし、自己弁護すれば、これは演奏家による責任も大きい。実際、例えば地唄の演奏を、鑑賞に堪えるレベルで行える演奏家は少ない。
 では、それはなぜか、と私なりに長年考えてきた。安直な演奏では真価が発揮されない古典曲では、前述のように、西洋芸術音楽とは異なった視点が必要なのである。演奏においては当然のことなのであるが、聴き手の側にも、それは求められる。
 しかし、演奏において「練習曲」の類が必要なように、西洋音楽(ジャンルは問わない)に囲まれて育っている現代日本人にとって、邦楽の古典曲の鑑賞の手引きのようなものが必要なのである。いわば、「聴き手の側の練習曲」である。それは、西洋音楽的分析が多少なりとも通用するものがいい。そう、今回の「末の契」は、まさにそういった数少ない曲の一つなのである。
 多少長くなったが、私の意図はそういった「聴き手の側の練習曲」の紹介にあり、動機や旋律の有機的使用の有無自体で、曲の価値を決めようというものではない。その点は、誤解のないようにしていただきたい。
 結果的に「夕顔」と「末の契」は、両極端な分析方法となったが、幾分かは私の意図でもある。今後も、曲の性格に応じた分析方法で、試論を述べていく所存である。


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