地唄とはそもそもどういうものか。伝統邦楽の中で地唄がどのような存在であるのか。伝統邦楽の中でも重要である三味線音楽の中でまず位置づけてみようと思う。その後、地唄の成立後の変遷をたどり、特徴をまとめる。


T 三味線の伝来と普及

1伝来
 中国の同類楽器<三絃(サンシェン)>が琉球に伝わり、さらにそれが、永禄年間(1558〜69)に大坂(東京を江戸とするように、当時の字を使用する)の堺に伝来した。しかし、楽器のみの伝来であり、奏法や楽曲は伝わらなかったらしい。最初に三絃を手にしたのは既存の同族(リュート族)楽器の奏者である琵琶法師であったため、琵琶の奏法の影響を受け、また日本本土の条件によって独自の新楽器に改良されて三味線となった。蛇皮の入手困難から猫(犬)皮としたことと、大きな撥を用いたことがその改良点である。

2普及
 16世紀末ごろから流行歌や民謡などの伴奏に用いられ始めた三味線は、上記の改良をしたといわれる石村検校(?〜1642)か、その門下の虎沢検校(?〜1654)によって、専門家の伝承芸として、全ての三味線音楽の源流にして地唄の最古典、三味線組歌を創始せしめられた(後に詳述)。17世紀初頭からは、従来無伴奏だった浄瑠璃の伴奏楽器にもなり、以後、各種の声楽の伴奏として広く用いられるようになり、三味線音楽の多様化が進行することとなる。


U 三味線の種類

 伝統邦楽を聴かない人にはあまり知られていないことであるが、種目ごとに三味線の種類は異なっている。大きく分けると<太棹><中棹><細棹>となるが、実際には細部を含めて種目ごとに異なる三味線を使用しているといってよいくらいである。
 しかしここでは上記の三区分に従って、主な種目で使用される三味線を区分してみよう。
<太棹>:義太夫節・津軽三味線・浪曲
<中棹>:地唄・常磐津節・清元節・新内節・一中節などの多くの流派
<細棹>:長唄・荻江節・河東節・端唄・小唄・民謡など


V 三味線音楽の種類

 上述のとおり、三味線音楽には多種多様なものがある。代表的なものの概略を以下に示す。

1地唄
 芸術的三味線音楽の最古典:三味線組歌の流れの中で発達していった、いわば三味線音楽におけるクラシック音楽。主として上方(京坂地方)を中心に、当道(盲人組織)に属する盲人音楽家の専門芸として伝承され、生田流箏曲と不可分に結合した。三絃(さんげん:地唄では三味線をこう称する)は単なる唄の伴奏以上の役割を担い、三味線音楽の中では最も器楽的性格が強い。地唄に関しては当然後に詳述する。

2長唄
 地唄の中の長歌(後述)が、江戸で歌舞伎の伴奏音楽として発達し、長唄となった。19世紀初頭には観賞用長唄も出現してくる。その発展途上で地唄・浄瑠璃・謡曲・狂言・はやり歌などの歌詞・旋律を取り入れた。伝統邦楽の中では他種目との交流が最も盛んであり、それ故、多様性がある。当時の江戸の趣味に合わせたため、出自は地唄でありながら全く異なったものとなっている。「黒髪」や「越後獅子」などの同名曲を比較のこと。特に「黒髪」は長唄では三味線の初演者:初世杵屋佐吉をそのまま作曲者としているが、元来は湖出市十郎(?〜1800)作曲による、同一曲である。

3浄瑠璃
 三味線音楽における語り物の総称で、細分される。15世紀頃が起源の無伴奏の語り物であったが、17世紀初頭に三味線伴奏となった。語り物とは歌い物に対する語で、節回しが12音律の音組織よりも言語抑揚に支配されるものである。
 大坂の義太夫節、京都の一中節、江戸の河東節は、それぞれ三都の気質をよく反映している。

@ 義太夫節(ぎだゆうぶし)
 17世紀末に大坂で竹本義太夫が創始し、今日まで人形劇(現在は文楽)の音楽として盛行。
A 河東節(かとうぶし)
 18世紀初期に十寸見河東が創始。はじめ江戸歌舞伎和事の音楽、のちに主に座敷音楽となった。山田流箏曲に影響を与えた。山田流箏曲はそのため、京唄(山田流箏曲に採り入れられた地唄)以外は、一般のイメージの地唄・箏曲とはかなり異質のもので、箏伴奏の浄瑠璃といった趣がある。
B 一中節(いっちゅうぶし)
 18世紀初期に京都で都太夫一中が創始。のちに江戸に移入され座敷音楽となる。
C大薩摩節(おおざつまぶし)
 18世紀初期に大薩摩主膳太夫が始めた江戸歌舞伎荒事の音楽。のちに長唄に併合された。
D豊後節(ぶんごぶし)〔廃絶〕
 一中節より分派。18世紀初期に宮古路豊後が京都で始め、江戸に移って大流行したが、風紀上の理由で弾圧され、絶えた。
 以下Iまでの諸派は豊後節の末流である。
E宮薗節(みやぞのぶし)
 18世紀中頃に宮古路薗八が京都で創始。のちに座敷芸に。
F新内節(しんないぶし)
 18世紀中頃の豊後節廃絶後、富士松薩摩(宮古路豊後の弟子)が江戸で創始。歌舞伎を離れ、座敷浄瑠璃となり、遊里中心に普及した。
G常磐津節(ときわづぶし)
 同じく宮古路豊後の弟子、常磐津文字太夫が創始。歌舞伎の舞踏劇の地として発展。
H富本節(とみもとぶし)
 常磐津節から分派独立して富本豊志太夫が創始。
I清元節(きよもとぶし)
 19世紀初期に富本節から分派独立した清元延寿太夫が創始。やはり歌舞伎舞踏劇の地として発展。

 以上のような浄瑠璃では太夫(語り手)の演奏は「語る」といい、「歌う」とはいわない。浄瑠璃は全般的に、日本語の言葉としての美質をよく活かしている。しかし皮肉にも、ポップスやロックやクラシックなどの西洋音楽にしか接していない現代日本人には、かえって接しづらいものであるようにも思える。
 使用三味線は大坂の義太夫節は太棹、京都の一中節から発する豊後系浄瑠璃では中棹、江戸の河東節では細棹を用いる。
 それぞれの特色についてはここでの主旨ではないので省略する。

4端唄・小唄
 端唄は、江戸時代中期から末期にかけて江戸で流行した三味線小曲。平板平明。端唄を土台として小唄が派生。小唄では撥を用いず、爪弾きである。


W 地唄の成立と展開

1三味線組歌
 Tの2で少し述べたが、地唄のみならず、芸術的三味線歌曲の最古典。石村検校(?〜1642)及びその門下の虎沢検校(?〜1654)が作曲した7曲、<本手組(現在は表組という)>は、慶長〜寛永(1596〜1644)のあいだには成立したと推測される。その後、虎沢か柳川検校(?〜1680)によって新しい手法を加えた<破手組>14曲が成立した。柳川が組織化し、浅利検校を経て早崎勾当(のちに検校)によって伝えられたものは京都で柳川流となり、その後深草検校から田中検校へと伝えられるとともに新作の増補も行われた。柳川流で現在まで伝承されているのは6曲のみであるが、他の曲も楽譜からの復元演奏が試みられている。
 一方、柳川から朝妻検校(?〜1690?) へと伝えられたものは、野川検校 (?〜1717) に至って改編され、曲目を32曲に定め、大坂を中心に野川流として伝承された。野川流の伝承は盲官名や芸名の頭文字によって<菊筋><富筋><中筋><楯筋>など、さらに細分される。菊筋では現在まで野川流全32曲が伝承されている。
 このように三味線組歌の伝承過程で柳川・野川両流派が生まれた。現在ではほとんどの地唄演奏家は野川流の系統にある。野川流は山陽地方、九州地方にも伝わっているし、「春の海」の作曲者として有名な宮城道雄の伝承系統は菊筋である。
 三味線組歌の特徴としては、ほとんどの曲が前後脈絡のない小編の流行歌謡や地方歌謡をいくつか組み合わせて一曲の歌詞としていることが第一である。箏組歌と異なり、一歌の拍数は一定ではない。音楽面でいえば、破手組では、ハジキや複雑なユリなどの奏法面や、テンポの緩急の自在さなどが出てくる。余談であるが、一説によれば、「派手」という言葉は、破手組の、こうした表組に対しての特色から来ているともいわれている。
 ほとんどの曲が調絃は本調子であり、曲中で調絃は変えない。

2長歌(地唄の分類名称であり、長唄とは区別されるので注意)
 作曲家の創作意欲の高まりは、やがて、一連の統一的な内容の歌詞を持つ曲の作曲へと発展する。これが<長歌>と呼ばれるものである。元禄16(1703)年刊の『松の葉』でこの分類が行われ、50曲が挙げられているが、年とともに次々と増補され、天明2(1782)年の『歌系図』では110曲にもなっている。
 長歌の特徴は、三味線組歌と異なり曲の途中での調絃の変更があるものもあること、どの曲にも比較的まとまった<合の手(器楽間奏部)>があることである。そして注意したい複雑なことは、寛政元(1789)年の『今古集成琴曲新歌袋』で<手事物>という分類名称が初出した後の歌本では、以前は長歌と分類されていた曲が、手事物とされることがあるということと、それと付随して、現在では京都と大阪では分類法が異なることである。
 例えば、本来「長歌三箇秘事」とされた「雲井弄斎」「狭衣」「関尽し」であるが、後には「八重霞」とともに「雲井弄斎」「狭衣」が手事物の「三つ物」と呼ばれるようになったことでそれがよくわかる。
 長歌の創始者といわれる佐山検校(?〜1694)作曲の「雲井弄斎」は、そうした手事の萌芽を示すとともに、三味線組歌からの長歌への移行をも示す興味深い作品で、前者については、『松の葉』では間奏部が「アイノテ、スガガキ、チラシ」と記されているが、現在ではこれを「ツナギ、手事初段、手事二段」と考えられていること、後者については、歌詞が近世初期に流行した弄斎節を組み合わせたものになっていることがそれである。
 長歌については、手事物と分類されるようになった曲を除くと、伝承されている曲は少なく、演奏家もあまり取り上げない現状にある。しかしかつては、文化年間(1804〜18)頃に津山検校(?〜1836)が「野川流長歌四十番」として制定した曲を中心に、三味線組歌とともに伝承上の規範であったのである。

3端歌(地唄の分類名称であり、端唄とは区別されるので注意)
 元来、伝承上の規範曲である三味線組歌と長歌以外の自由創作曲全てを端歌と称していたが、その後<浄瑠璃物><作物><謡曲物><手事物>など、その分類が分化すると、それらに該当する曲を除外するようになった。
 そのような意味での現在一般的に端歌と呼べるような曲が盛んに作られるようになるのは、継橋検校(生没年不明、1732登官)の頃から、すなわち享保(1716〜36)以降らしい。そして鶴山勾当(延明〜宝暦〔1744〜63〕頃活躍)や吉村検校(生没年不明、1741登官)を経て、端歌改革を行ったとされる歌木検校(生没年不明、1756登官)が登場する。その改革とは、俳諧調の歌詞の採用と、それまで以上に歌詞に細やかに配慮した作曲法であり、その後の文人や粋人たちの作詞活動(端歌にとどまらない)を刺激した。そして音楽的な頂点は、(現代の西洋音楽作曲家を含めて)日本史上最大最高の作曲家、峰崎勾当(天明年間〔1781〜89〕以後活躍)の諸作品によってもたらされる。峰崎は、後述するが、大坂手事物の大成者の一人でもある。峰崎の端歌作品の中で一般的に代表作とされるのが「ゆき」であり、それは事実であるが、筆者個人的には「袖香爐」が好きであり、知人には「別世界」がよいと言う者もいる。その事実は、峰崎作品の多様性を如実に表しているように思われる。
 端歌は、小品が多く、歌本位なのであるが、その芸術的洗練度の高さはすばらしい。

4芝居歌
 17世紀末頃の上方では、非盲人劇場音楽家が作曲・演奏に活躍していたが、江戸の芝居の音楽が<長唄>として種目化したのに対し、上方の芝居の音楽は独立することなく、やがてその楽曲のみが地唄の盲人音楽家によって伝承されるようになり、<芝居歌>と呼ばれる地唄の一曲種となった。そうした非盲人上方劇場音楽家の中で最も重要なのは岸野次郎三 (元禄〜正徳〔1688〜1716〕頃活躍)である。この人物は「忠臣蔵」で有名な大石内蔵助との交流でも知られる。しかし、重要視したい真の理由は、岸野が非盲人でありながら、盲人音楽家の伝承上の規範曲たる長歌に編入されている曲を作曲しているという点であり、岸野の価値を盲人音楽家達も認めていた、ということである。芝居歌も多く伝承されている。
 もちろん、岸野以外の作曲家の芝居歌も伝承されている。前述の「黒髪」も、元来は芝居歌であった(現在では一般に端歌とされる)。

5謡曲物
 謡曲の詞章(部分)をそのまま歌詞とし、地唄として作曲した曲。尾張の藤尾勾当(明和〜安永〔1764〜81〕頃活躍)などが多く作曲した。

6浄瑠璃物
 18世紀初め頃から、盲人音楽家が、浄瑠璃の曲を取り入れて自己の曲目とすることが始められ、元の浄瑠璃の種類によって<半太夫物><永閑物><繁太夫物>などに分類される。歌い物である地唄が、これによって語り物ふうの表現を取り入れ、芸風を拡大した点と、すでに絶えてしまった繁太夫節・半太夫節などの面影を偲ばせる史料となる点で重要だが、現在そう多くは伝承されていない。
 代表者としては、端歌の項でも名を挙げた鶴山勾当を挙げる。繁太夫節の曲風をまねた地唄独自の新作を作曲しており、これも繁太夫物と呼ばれる。

7作物
 浄瑠璃物により語り物摂取を果たした表現力を基に、18世紀中頃から現れた滑稽な内容の新曲種。盲人音楽家の余興として即興的要素を含んでいるため、作詞者・作曲者はほとんどが不明である。

8手事物
 長歌の項で多少述べたが、長歌の中には<合の手>と呼ばれる間奏部を持つ楽曲が存在し、この合の手は寛政(1789〜1801)頃までにはますます器楽性を強めて拡大され、<手事>と呼ばれるに至った。この手事を持つ楽曲が手事物である。分類としては、寛政元(1789)年の『今古集成琴曲新歌袋』に初出。以前は長歌と分類されていた曲や、本来は純粋な器楽曲であったものの前後に唄をつけた曲なども含まれる。注意していただきたいのは、手事物の中には手事のほうが唄部分より長い曲もあり、西洋音楽的概念の間奏部とは異なることである。むしろ、唄部分よりも手事のほうが眼目であることも多い。

?長歌から大坂での手事物の完成へ
 佐山検校(?〜1694)、市川検校(生没年不明、1684登官)、朝妻検校(?〜1690?) らによる初期長歌は、現在まで伝承されている曲は少ない。あまりに古典的すぎることも一因と考えられている。
 やがて継橋検校(生没年不明、1732登官)の頃に、新傾向の長歌作曲が行われだした。その間奏部の器楽的発達の先駆的傾向が見られ始める。手事物が分類として確立された後、「雲井弄斎」(佐山検校作曲)、「狭衣」(市川検校作曲)、「八重霞」(継橋検校作曲)の3曲が手事物の「三つ物」といわれ、重んぜられるようになる。Wの2で述べたとおり、「八重霞」以外の2曲はかつて「長歌三箇秘事」とされていたものである。「八重霞」は、それら古作と並べられるほどの名曲であるということである。ちなみに継橋検校は、端歌の古典的作曲家でもある。
 そうした流れの中で大坂を中心に発展していった手事物の特色は、手事に段構造を持つものが多いこと、その同一拍子数の「段」同士や、同一音形の反復である「地」との三絃同士での合奏を念頭に置いて作曲されたと思われるものが増えてくることである。しかし、生田流の発生以来、箏との合奏もさまざまに行われだしていた。
 大坂での手事物の完成は、峰崎勾当(天明年間〔1781〜89〕以後活躍)と三橋勾当(享和〜文政〔1801〜30〕頃活躍)によってなされた。三橋勾当の「松竹梅」と「根曳の松」は、「名所土産」(讃州某作曲)とともに、地唄の許し物制度上最高の「三役」として扱われ、峰崎勾当の「残月」と「越後獅子」は、「西行桜」(菊崎検校作曲)とともに、「シマ三つ物」または「芸子三つ物」といわれる派手な手事物の代表曲として扱われる(注:「越後獅子」のかわりに「八重霞」とすることもある)。
 私見であるが、わかりやすい一番の両者の違いはといえば、三橋の曲は三曲合奏(三絃・箏・尺八の合奏)で真価が出るが、峰崎の曲は三絃のみの本手・替手の合奏で真価が出ることだと思う。とくに峰崎の「吾妻獅子」は、三曲合奏では、この曲の本当のおもしろさはまったくといっていいほど出ないと思う(あくまで私見です)。これについては、紙面もないので、いずれ「吾妻獅子」をとりあげるときに詳しく述べたいと思う。

?京風手事物の誕生と地唄の終焉
 ?で述べたとおり、大坂を中心として発達していった手事物は、三絃同士の合奏が中心だったとはいえ、箏との合奏も注目されていた。当初はベタ付け(三絃の旋律をほぼなぞった手付)であったが、文化・文政(1804〜30)頃には替手を箏が分担し、三絃とは別の旋律を弾くようになってくる。このような箏手付をした曲を箏側から見て<替手式箏曲>と呼ぶこともあり、ここに至って地唄と生田流箏曲の区別が判然としなくなるとともに、箏手付者も作曲者と同じくらい重要視されるようになる。その先駆的な試みとしては大坂の市浦検校(生没年不明、1814登官)の箏手付が有名であるが、京都では、特にそうした三絃と箏の双方に独自性を持たせる合奏が盛んになり、作曲も、箏手付を前提とし、あるいは同時性さえもって行われるようになる。これは<京風手事物>と呼ばれ、手事部分がますます複雑化していった。代表的作曲家は、松浦検校(?〜1822)、石川勾当(文化〜文政〔1804〜30〕頃活躍)、菊岡検校(1791〜1847)、光崎検校(?〜1853生存確実)、幾山検校(1818〜90)であり、代表的箏手付者は、浦崎検校(1776〜1848)、八重崎検校(1776?〜1848)、松野検校(1802〜71)、二世松崎検校(?〜1871)である。ただし、光崎と幾山には自身で箏手付をも行っている曲がある。
 替手式箏曲に発展しうる三絃手事物を作曲し始めたのが松浦であるため、彼を京風手事物の創始者とするが、無論、現在伝承されている替手式箏曲の大部分に箏手付を行った八重崎の存在も重要である。「松浦四つ物」の中で唯一八重崎の箏手付でなく、したがって松浦の初期作品とされる「深夜の月」(浦崎検校箏手付)の手事にはまだ、大坂手事物の名残があるように感じられる。松浦は、おそらく浦崎らの箏手付を聴いて作風を変化させていき、その土台のうえで八重崎の箏手付に触発されて京風手事物の様式を確立していったのであろう。
 石川は赤貧にあえぎながら、弟子も取らずに自分でも弾きこなせないような難曲ばかり作る変人として当時有名だった。三絃演奏の腕前を嫉まれ、検校に登官できなかったとも、極度のあがり症だったとも伝えられる。自作も重要だが、他者作品の三絃替手にも重要作かつ難曲が残されている。
 菊岡は、地唄作曲家の中では他者と比較してとび抜けて多くの作品が現在まで伝承されている。その旋律美ゆえと思われるが、あまりにも多数の曲が伝承されているので、結果として作品完成度にはむらがあるように感じられる(他の作曲家はある程度の名作のみ伝承されているのだろう)。
 光崎は、八重崎の門弟であったので、箏の実力もあり、自作三絃手事物に自身で箏手付を行いだすだけにとどまらず、三絃から脱却した本来の箏曲の復古にも取り組み、それが幕末から明治以降の箏主体の創作に結びつき、結果として地唄の創作は絶えることとなる。そのため現在では地唄は箏曲に編入されたかのような状態になっているが、上述のとおり、歴史的に見れば、三絃本位であるのである。
 ただ、私は、光崎の箏曲復古運動を非難するつもりは毛頭ないし、それどころか積極的に評価している。光崎の手事物作品も箏曲作品も両方好きである(手事物作品のほうが好きなのはしかたないが)。そのことは明記しておきたい。
 幾山は「打合せ物」(他の特定の曲と同時演奏できるよう作曲された作品)で有名である。実質的に最後の地唄作曲家。


X 地唄の特徴

 Wで述べてきたとおり、地唄は三味線組歌から、作曲意識を伴う創作であり、その作曲意識から曲風の改革が行われ、様式を変遷させた。新しい様式の誕生に際してはほとんどが前の様式の一部を拡大する形をとり、他の芸能の摂取に始まる例は少ない。また、作曲意識とも関連するのだが、それぞれの様式の中でも、作曲家の個性というものがはっきりと認められる。そして特に手事物の場合がそうなのだが、構成が比較的はっきりしていることは日本近世音楽の中でも際立っており、それも作曲意識と無縁でないだろう。
 音楽的には、唄はメリスマ(一音節複数音)的旋律的なものが多く、表現はあくまでも節度をもって行われる。強弱の変化も、演奏家によって個人差はあるがあまりつけない。
 演奏上特筆すべき特徴は、弾き歌い形式が一般的であることである。このことは他の三味線音楽と大きく異なる(他種目では弾き手と歌い手は分けられている)。しかしこれは箏奏者に大きな負担となる。特に上述のとおり京風手事物は、箏が替手形式となっているため、弾き歌いは容易ではない。よって三絃奏者が歌うのが通例である(箏奏者がめだって格上であればまた違う)。
 そして、器楽性の強さゆえか、唄が旋律的だからか、伝統邦楽の中では西洋音楽で育った者にも入門しやすい。雅楽管弦や能楽囃子、箏曲段物に次いでいるだろう。


<参考文献>
 ・邦楽百科事典(吉川英史監修:音楽之友社刊)
 ・CD箏曲地歌大系解説書(平野健次著:ビクターエンタテインメント制作)

拙文を終えるにあたり:
 この偉大なる参考文献にもかかわらず、若輩者の私ごときの主観が入ってしまった部分もありますが、読者諸氏の寛大なるご容赦を希望いたします。
 そして、実際に地唄の演奏を聴いて頂き、明治以前にも日本に個性豊かな作曲家達が存在していたという事実を是非実感して頂きたい。その際に拙文がお役に立ったとしたら、それは筆者にとって無上の喜びであります。


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