ヘクトパスカルVol.1の「地唄における音階と調性理論」と、別掲のスコア(PDF 2.85MB)を参照しながらお読みください。尚、このスコアは三絃・箏は九州系地唄演奏、尺八は琴古流のそれぞれある流派のものなので、演奏家によって多少差異があります。

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「夕顔」
 作曲:菊岡検校(1792〜1847)
 筝手付:八重崎検校(1776?〜1848)

〔歌詞〕(作詞者不明)
 住むや誰(たれ)、訪(と)いてや見むと黄昏に、寄する車の訪れも、絶えてゆかしき中垣の、隙間求めて垣間見や。
 かざす扇に焚きしめし、空薫(そらだ)き物はほのぼのと、主(ぬし)は白露、光を添えて。
(手事)
 いとど栄えある夕顔の、花に結びし仮寝の夢も、覚めて身に沁む夜半(よわ)の風。

構成:前唄―手事―後唄(全曲通して二上り)
主調:D調―――――→|

〔分析〕
 2小節目2拍目でドミナントでの半終止の後、それを受け3小節目1拍目でAを2回出し、楽器群は3小節目2拍目〜4小節目1拍目でトニックに下降終止する。ただしその間、唄はドミナントを持続している。そして4小節目2拍目の唄の上向終止にしたがって、楽器も上向形で導音から主音へ終止する(5小節目2拍目〜6小節目1拍目)。
 そして上向終止したという流れから、6小節目2拍目、導音(C)から上主音(Es)へ主音(D)を飛びこして跳躍するための不安定さを感じさせるが、その唄を受けて楽器の8〜10小節目のフレーズにつなげて、Dへ下降終止する。その後、唄のG(10小節目2拍目の2つ目の4分音符)を受けてドミナントへ半終止した後、主音(D)と上主音(Es)の微妙なかけひきの部分(12〜17小節目1拍目)が続く。日が沈む前のたそがれ時の描写とも受けとれる。
 18小節目から合が始まると雰囲気を変えてくる。上向終止に向けて音が動くが(17小節目2拍目〜18小節目)、そこで止まらずに筝パート(及び尺八)は18小節目2拍目〜19小節目1拍目にドミナントでの半終止音形を出して流れをつくる。17小節目2拍目〜21小節目1拍目は三絃と筝とで交互に動きを持たせる巧みなつくりで、八重崎の筝手付の当意即妙さがよく表れている。ちなみに、この部分の尺八パートは、三絃と箏のうち、動きのある方の手にあわせている。
 この合の終わりに初めての転調がある。21小節目1拍目でのDへの下降終止を受け、今度は三絃のC→Dへのスリと、筝の変則的な音形(22小節目2拍目〜23小節目)により、突如としてG調(サブドミナント・キー:下属調)の上主音Asが表れ、「寄する車の訪れ」を見事に表現する。ちなみに先ほど述べた22小節目2拍目〜23小節目の筝の音形は、G調でのDからの下降終止音形の変種であると考えられる。ちなみに尺八の手は21小節目2拍目ではCになっており、C・As・GとG調への下降終止を明確にしている。G調は28小節目1拍目まで続く。26小節目から27小節目1拍目までの音形はG調でのドミナント(D)への半終止であり、それは28小節目1拍目でGへ解決していることからわかる。
 28小節目2拍目でAsではなくAを出すことで、D調への回帰の推移が始まる。ちなみに30〜31小節目1拍目の楽器群は、22小節目2拍目〜23小節目の音形をD調へ移調したものである。ただしこの場合は推移部(28小節目2拍目から)があるために、唐突という印象はないため、聴いただけの場合、気付きにくいかもしれない。唯一違っているのは31小節目1拍目の筝パートの2つ目の4分音符で、この後の音楽の流れをつくるために多少凝った手付けになっている。
 それをふまえて31小節目2拍目からの三絃(及び尺八)パートを見てみると、34小節目1拍目でドミナントへの半終止が予想される流れになっているところを、Gから上昇していき、35〜36小節目2拍目で新たにトニックへ下降終止しているのである。そして下降終止音形を受けて36小節目2拍目〜37小節目1拍目でA調(ドミナント・キー:属調)での下降終止音形を出したあと、44小節目でD調へ回帰するまでA(主音)を異様なまでに強調した器楽部分(筝パートなどをみれば様々な形でAを強調しているのがわかる)と、対照的にAを経過音としてしか扱っていない唄部分(41小節目2拍目〜43小節目)との対比のおもしろい部分が続く。この部分をここではA調としたが、D調でのドミナントでの半終止を中心とした部分との解釈もできる。というのも、転調したという証のEの音も、転調していないという証のEsの音も出てこないうえに、Dも経過音的にしか出てこないため、はっきりとした判断は難しいのである。しかしA調に転調していると考える方が、唄パートの導音(G)と上主音(B)を多用しておもしろい効果をあげているこの部分(41小節目2拍目〜43小節目)の説明としてはよりしっくりくると思われる。付け加えるなら、G(導音)とB(上主音)の多用と、楽器群でのAの強調が、A調であることを体感させる。
 そして44小節目のD調への下降終止の準備音形(ここでEsが出てくるため、D調へ回帰したことがわかる)からなかなかトニックに終止しないが、36小節目2拍目〜43小節目の前述の部分の唄部分(41小節目2拍目〜43小節目)と合わせて考えると、なお興味深い。36小節目2拍目〜43小節目での楽器群によるAの異様なまでの強調は、「絶えてゆかしき中垣の」という歌詞のもう一面の表現と考えられる。微妙な調性設定の中で、主音(A)への「ゆかしさ」が強調されるのである。
 そして今度ははっきりとA調へ転調する(50〜51小節目1拍目の推移部分から)。ここではっきりとEの音を出している。そして51小節目2拍目〜53小節目1拍目で箏パート(及び尺八)にA調での下降音階を出すことによってA調が確立される。そして54小節目1拍目:三絃、54小節目2拍目:箏、55小節目1拍目:唄、と次々とEの音が出されるが、DからEsではなくEであることで、「隙間求めて垣間見や」という、光源氏からすれば夕顔という非日常の女性の姿をのぞき見る浮かれた気分が(半音上がっていることによって)表現されていることになる。64小節目2拍目からD調への回帰の推移部分となり、67小節目でD調の上主音:Esが出て、D調へはっきり回帰したところで前唄の前半が終わる。
 さて、69小節目から比較的長い合が始まる。Aが頻繁に使用されるが、D調の範囲内である。A調(ドミナント・キー:属調)への移行は、スピードが上がってくる所、75小節目あたりから始まる。69〜74小節目はD調でのドミナントへの半終止を基本とした部分である。西洋楽理でいえば、73小節目でg‐moll(ト短調)で終止と言うことになるが、これはAの導音として理解すべき所である。従って75小節目のAはD調でのドミナントへの上向半終止音と、75〜78小節目1拍目の推移主題の開始音を兼ねているのである。79小節目でEが出ることによって短くはあるがA調の部分となる(〜83小節目1拍目)。
 82〜83小節目1拍目と83小節目2拍目〜84小節目をよく比較していただきたい。83小節目1拍目と84小節目2拍目は共にAであるが、前者はA調の下降終止、後者はD調でのドミナントへの半終止である。つまりここでD調へ回帰し、85小節目1拍目で三絃がC→Dのスリで上向終止し、運動性を与えて前唄後半(「かざす扇に〜」の部分)が始まる。
 唄が入ると楽器群は上主音(Es)を多用した旋律によってこの部分の緊迫感を表現する。94小節目でドミナントへ半終止した後、A調への推移が始まる。A調がはっきりしているのは96小節目2拍目〜101小節目1拍目と短いのだが、推移部(94小節目2拍目〜96小節目)での箏手付はまことに巧みである。94小節目2拍目でAの導音(G)を出した後、96小節目に向けて裏間だけ弾くことにより、推移部分であることを暗示している。そして三絃(及び尺八)パートと唄による短いA調部分の流れをスムーズにしている(常に箏パートが先導する形になっているのがわかるだろう)。そして101小節目2拍目からはD調への回帰の推移となる(〜108小節目1拍目)。101小節目1拍目で下降終止した後、101小節目2拍目〜102小節目1拍目の三絃のG→Aのスリで運動性を持たせて104小節目でD調の上主音(Es)を出す流れをつくる。しかしEsを出したことでD調への回帰を示しても、肝心の主音(D)はなかなか出てこない。108小節目2拍目〜110小節目でやっと下降終止する。つまり10小節近くにもわたって主音であるDを出してこないのであるが、これは従者に和歌を託した光源氏が待っている間の心境を表しているのだろうか。
 しかしすぐまたA調へ移調する(112〜117小節目)。この部分の歌詞「ほのぼのと」に対応しているように感じられる。118小節目の三絃のスクイバチからD調への推移となり、つかの間D調となるのだが、127小節目から本当になんの前触れもなくG調(サブドミナント・キー:下属調)へ転調するのである。あえて考えれば、123〜125小節目でドミナントへ半終止した流れから126小節目で動きをつけて(その間の箏手付は興味深い)、ということになるのだが。しかも、二上りの場合、A調の演奏は比較的自然にできるのだが(三絃はD・A・Dという調絃であり、二の絃がA調の主音となるため)、G調の演奏はすんなりとはいかない(主音:G、上主音:As!)。それにもかかわらず、ここでは133小節目まで続き、D調への推移は134小節目から始まり、Dへ終止するのは手事の直前、138〜139小節目の下降終止するところでやっと行われる。このG調の異常ともいえる持続は何を意味するのか?それは明らかにこれから起こる恐怖(六条御息所の生霊)の予感であろう。後唄の歌詞は夕顔の死の嘆きで始まること、地唄舞では手事部分で御息所に襲われる様を表すということ等、音楽以外でもそれを裏付けることもある。
 さて手事である。手事物の手事部分は日本伝統音楽の中でも特に高度に発達した器楽曲である。純粋な抽象器楽曲の場合もあれば、描写音楽の場合もある。
 「夕顔」の手事は、D調とそのドミナントでの半終止(353〜364小節目のA調への転調を除く)のみで出来上がっている、明快な曲想である(前述のとおり二上りでのA調は比較的自然に演奏しうるものである)。不思議なのは、手事の直前であれだけデモーニッシュな表現をしていながら、嘆き(後唄)の前提として手事をとらえるなら、なぜそうした曲作りをしているかである。
 私見を述べさせていただくと、この手事は六条御息所の生霊の場面を直接描写したものではないと思う。むしろそうした曲作りをすることによって、かえって浮世離れした夕顔という曲の世界を表現しているのではないだろうか。
 しかし、調性面からいえば明快なのだが、三絃と箏の相互作用などはまことに興味深い。三絃の曲(たとえ箏の手付がされるのを前提としていても)に様々なかたちで箏がそれを彩っていく様は、さすが八重崎、といえるだろう。
 ところで、構成面からいえば「夕顔」の手事は、手事を細分した場合の「本手事」だけで成り立っている。京風手事物の場合の典型的な手事の細分は、マクラ−本手事−中ヂラシ−チラシ、というものである。その場合の本手事の見分け方としては、274〜281小節目のように、箏(及び尺八)が先導した音を三絃が1拍遅れで奏していく部分(「打合せ(追い拍子)」という。ちなみにまったく関係のない2曲、あるいは既存の曲に合奏できるように作曲された曲を合奏することも「打合せ」というので注意) がその始まりと考えられる。「打合せ(追い拍子)」は、本手事の中で何度も奏される(楽想の日本音楽的展開とでもいうべきものである)。曲によっては、箏手付が単純な音の先導をしていない場合もあるので、比較的音価の長い音の連続を三絃が1拍遅れで奏するところ、と考えても良い。ぴったりそこから、というわけではなく、そうしたフレーズを含む楽節が本手事の始まりである(大坂物等手事が段構成になっているものは除く。ようするに「典型的な京風手事物」という範囲内でのことである)ので、マクラのある手事を持つ曲を聴く際に参考にしていただきたい。
 そういう意味で言えば夕顔の手事は最も切り詰めた構成になっているので、ほかの手事物を聴く際には良い参考になるであろう。要するに143〜150小節目のフレーズを含む141小節目から本手事は始まるのである。ただし、141〜142小節目は、例えば箏曲段物における「喚頭」のような役割を果たしており、「マクラ様の部分」ともいえる。
 手事の中では、いくつかの「動機(音楽を独立して構成する最小の単位) 」が、要所で用いられている。例えば、「末の契」のような徹底的な有機的使用とは違うのだが、むしろ地唄においては「夕顔」の手事の方が、一般例となりうる。
 「打合せ(追い拍子)」での提示なので、とりあえず三絃を基準にすると、143小節目2拍目〜147小節目1拍目を「動機a」、147小節目2拍目〜150小節目を「動機b」、151小節目2拍目〜155小節目1拍目を「動機c」、155小節目2拍目〜159小節目1拍目を「動機d」とし、「動機a」+「動機b」=「主題A」、「動機c」+「動機d」=「主題B」として、具体的に見ていく。
 まず、171小節目2拍目〜174小節目で、「動機a」の変形した「a'」が現れる。213〜220小節目1拍目で「動機c」の展開形(素材を育成・発展させた形)、それを再び221〜228小節目で出す。ただし2回目は、かなり装飾的な箏手付になっている。
 そして、229〜236小節目で「主題A」の展開形を出す。241小節目2拍目〜244小節目で「動機c」の変形した「c'」、245小節目2拍目〜249小節目1拍目で「動機a」の変形した「a''」、249小節目2拍目〜253小節目1拍目で「動機b」の変形した「b'」が現れる(つまり、245小節目2拍目〜253小節目1拍目は、合わせて「主題A」の変形「A'」ともいえる)。
 280小節目2拍目〜284小節目1拍目で「動機c」の展開形。293〜297小節目では「動機a」の変形が出るが、箏手付はそれを強調している。333小節目2拍目〜340小節目1拍目では「c''」が、掛合いの形で現れる(箏で考えるなら332小節目2拍目から、ということである)。
 そして最後に、369小節目2拍目〜377小節目2拍目に「主題A」の変形「A'」が現れて、手事を締めくくる。
 379〜381小節目でドミナントへ半終止して、属音(A)を連続して奏して手事が終わるが、そのため後唄へ音楽が「流れ込む」といった印象を与える(完全終止していれば手事だけで独立している感じになる)。392小節目まではD調でのドミナントでの半終止を基本として作られている。まだここではA調になっていないのは時折現れるEsで確認できる。そして393小節目からは細やかに転調を続けるのだが、379〜392小節目までの半終止を中心とした組み立ては、夕顔の死への嘆きが、まだ激したものというよりは、呆気に取られた感じであることを示している。393〜396小節目はA調への推移部分であり、397小節目からA調となる。同じAを中心とした曲調でも、D調でのドミナントとA調での主音という違いがあり、ここで光源氏がはたと我にかえって「花に結びし」と、上主音(B)を多用して、あらためて激しく嘆くことが際立つ。A調は404小節目1拍目まで。
 404小節目2拍目〜406小節目は一時D調であるが、407小節目からのG調への推移部も兼ねる。407小節目1拍目のFはG調の導音であり、D調では音階外の音である。408小節目のAs(G調の上主音) でG調がはっきりし、「仮寝の夢」の異様な様を緊迫した調性で表現する。前述のとおり、二上りでのG調の使用は特に注目すべきである。その後409小節目2拍目〜411小節目1拍目でAからD調にて下降終止する。そしてそれも長くは続かず414〜415小節目1拍目の推移をへて415小節目2拍目からA調となり気分を変え、419小節目2拍目から再びD調へ回帰する。このとおり歌詞に即した細やかな転調をきわめて自然に行うところが菊岡の腕の冴えの見事さである。
 その後はD調のまま進行する。419小節目2拍目〜422小節目2拍目のフレーズでD調を確立した流れで423〜424小節目2拍目は下降終止。その勢いを持ったまま425小節目でドミナントへ半終止して「覚めて身に沁む」を導く。427小節目2拍目から緩やかに上昇していき「身に沁む」ことが痛切に感じ取れる。そして緩やかに下降して曲を閉じる。

 菊岡は、メロディーメーカーにありがちな「冗長さ」を感じさせることも間々あるのだが、この曲は簡潔でありながら完成度が非常に高い。しかし、誰もが認める名曲でありながら、名演と感じさせるのが非常に困難な、ある意味では難しい曲である。この曲を忌避する演奏家もいるのはその故だろう。
 ところで菊岡・八重崎のコンビは演奏家としても伝説的で、この二人の合奏は剣豪どうしの真剣勝負のようなものを感じさせたらしい。「玉川」という曲の喧嘩弾き(即興的な入れ手などをふんだんに使用して相手の手を止めさせようとする合奏)がきっかけでこのコンビが誕生したということも有名である。「夕顔」は、作曲面でのこのコンビのものとしては、比較的初期のものらしいが、「楫枕」、「磯千鳥」とともに、菊岡の最高傑作のひとつとして、個人的にはこの3曲を「菊岡の三つ物」と呼びたいぐらいである。


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