ある朝、といっても、もう十一時にはなっていただろうか。私がふとテレビをつけると、ちょうどバレーボールの試合が放映されている。私は見るともなくしばらく眺めた後、そそくさとスイッチを切った。そう、私はバレーボールというゲームに興味がもてないでいる。
 以前はこんなではなかった。私は全日本女子のオランダ戦(だったと思う)を大阪府立体育館に見にいったりもしたし、これはテレビ観戦であるが、カーチ・キライのプレーにくぎづけになったりもした。そんな私がどうして?
 一番の理由は、サーブ権という制度がなくなったことだろう。サーブ権とは、字義通りに取るなら、サーブを打つ権利である。当然ながら、そうした意味でのサーブ権は現行においても存在し、一連のラリーに勝利を収めたチームが、次のサーブ権を獲得する点は、従来と変わらない。
 すると従来のルールと現行のルールの、サーブ権に関する相異点はどこにあるのか。従来のルールではサーブを打ったチームは、そのサーブで始まる一連のラリーに勝利した場合得点を得るが、サーブを打たなかった側は勝利しても得点にはならない。一方、現行では、サーブを打ったチームも打たなかったチームも、ラリーに勝利すれば即得点が入る。念のために言い添えるなら、サーブ権という権利は放棄することができない。
 サーブ権という制度を廃した現行のルールにおいて、では、何が起こるのか。どういう事態が観察されるのか。
 一連のラリーに勝利する確率がより高いのは、両チームの戦力が拮抗しているとすれば、サーブを打たなかったチームである。それは、そのラリーにおいて最初にアタックを打つ側は、通常、サーブを受ける側であることと関係している。
 通常、と断ったのは、サービスエースの場合もあるし、レシーブが乱れる場合だってあるからだ。要は、確率が高いということである。
 これも確率の問題になるが、特に両チームの戦力の拮抗する場合には、そればかりか、両者にある程度の力の差が認められる場合においても、サーブをきちんとレシーブし、乱れることなくセッターまで返せば、後はコンビを使うなりでブロッカーの読みを外し、強いアタックを打ちこむことのできる確率は高い。
 すなわち、仮に対戦する両チームにある程度の実力差がみられる場合にも、一連のラリーにおいてサーブを受ける側が勝利する確率は高い、ということになる。
 すると、サーブ権をもつチームのみが、その一連のラリーの後に得点しうるという従来のルールにおいては、得点はなかなか増えてはいかない。サーブを打つ側は、そのサーブで始まるラリーに限っていえば、不利だからである。
 ここに、興味深い現象がみられる。実力差のある二チームの対戦においても、(二チームの戦力が同等であることは稀である)その力の差がある程度に抑えられているならば、シーソーゲームが期待される。試合の始まりにおいてサーブ権を獲得する確率は五分五分だが、仮に取ることができなかったとしよう。最初の一点を取るためには、二回連続でラリーに勝利せねばならない。そして二回目、つまりサーブを打つ側に回ったとき、そのラリーに勝利する確率はかなり低いという試練が待ち構えている。
 一方、サーブ権という制度を廃した現行のルールではどうか。端的にいえば、点は簡単に入る。サーブがアウトになっても、相手に一点が入る。先述したとおり、サーブを打つ側よりも、サーブを受ける側のほうが、そのラリーに勝利する確率は高いわけだが、サーブを受ける側が勝利しても得点は入る。これではどうしたって得点は入りやすい。一点の価値が、相対的に低下したわけである。シーソーゲームには違いないが、サーブ権という制度をもつゲームとは、明らかに趣を異にする。簡単にいうと、味気無いのである。
 東京ドームがつくられたときの、「もう野球という名称は変えなきゃいかんな。これからは屋球や」(千葉茂)という言葉は、雨風の影響を受けないという利点の獲得と引き換えに、野球というゲームの大きな魅力のひとつが失われてしまったことへの嘆きとも取れるだろう。いや、この言葉からは、野球というスポーツの同一性をも危ぶんでいるような気配が窺えるのではないか。
 試合時間の均一化の代償として、バレーボールはどれほどのものを失ったのか、計り知れない。

 


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