うちの母方の祖母は、生きていたらとっくに100を超えている年です。関東の地方都市で主婦として平凡だがまあまあ幸せな一生を送った人で、晩年は嫁や子供と一緒に日帰りで東京に行き神社仏閣を廻ったり、買い物をしたりすることもあったそうです。
 そこまではよくある話ですが、少し変わっていたのが東京巡りで道案内をするのが付き添いでなく、祖母のほうだったことです。特に麻布、赤坂、青山、原宿、虎ノ門などは裏道や近道を知り尽くし、移動でも地下鉄にすいすい乗っていたそうです。
・・・「おばあさんあの辺りは詳しいよ。住んでたんだもの。」
 種明かしをすると、祖母は結婚前ほんの短期間ですが某大名華族のお屋敷に奉公していたのです。いま、奉公というと「おしん」みたいに・・・と想像をしてしまいがちですが、特にあまり苦労した様子もなく、結婚までという一昔前の腰掛けOLのような気楽な勤めで、東京での生活は華やかなよい思い出だったようです。

 祖母が東京にいたのは関東大震災前の大正。大震災、第2次世界大戦、そして高度成長期と東京にはそれから数々の激変がありましたが、地理的にある程度のコツをつかめば昔との違いは大きくなかったようです。お屋敷は役所や公園、大きなビルやショッピングセンターに、市電は地下鉄に、そして変わらない幹線道路、学校、神社や寺の場所。これは都市が表面上は変化を繰り返していても、連綿と変わらぬ側面を持っていることの一つの証拠ではないでしょうか。
 大正中期といえば、明治維新から50年ほどしか経っていません。娘時代の祖母がまだ江戸の面影を残す麻布のお屋敷町で、たとえば元勤皇の志士とすれ違っていたかもと考えると、時代の流れが紙の上の歴史から確かな実感へと変わっていく気がします。

 そんな時代の人物の自叙伝「鳴雪自叙伝」(内藤鳴雪著)は、江戸時代に生まれ昭和を迎える直前まで生きた人物の回想録です。
 内藤鳴雪は松山藩の要職にある家に長男として生まれ、武士として最高の教育を受けた一流の知識人でありながら、正岡子規の年長の友人として若干の俳名を残すのみで、歴史の表舞台に出ることはなかった人物です。幼少期から青年時代までの武士としての日常生活、幕末から明治へ変わる時代、それに伴う本人や家族の転変等が聞き書きの形でまとめられています。幕末の藩内の動きや明治初期の経済的困窮、キリスト教に入信する妻子やハワイに行った弟、中国で死んだ息子など、語りようによってはドラマティックな面もありますが、飄々としたすっきりとさわやかな語り口がかえって時代のうねりの大きさを感じさせます。
 鳴雪自叙伝の解説にあるとおり、"内容的に響きあう"のが福沢諭吉の「福翁自伝」です。これは自伝文学の傑作とされ、才知あふれる下級武士が時代を得てのし上がって行く、躍動感ある自叙伝です。これらは岩波文庫ですが、同文庫には明治・大正期の随筆で面白いものが多く、さらに時代は下りますが、寺田寅彦、薄田泣菫、長谷川如是閑など多く出版されています。私はスピード感が削がれる感があって旧かな遣いが苦手なので、新仮名遣いになっているこれらの方が丸谷才一や小林秀雄を読むよりずっと楽に感じます。薄田泣菫の「茶話」の解説を坪内祐三が書いているなんていうのもうれしい限りです。

 また、明治を描いた傑作マンガが、「坊ちゃんの時代」シリーズ(関川夏央・谷口ジロー)です。これは有名なので知っている人も多いでしょうが、版元の双葉社が最近新装文庫版を出しまたので、今入手が簡単です。ざっと内容は、
 @「坊ちゃんの時代」・・初期の夏目漱石
 A「秋の舞姫」・・森鴎外のエリス事件
 B「かの青空に」・・石川啄木の借金生活
 C「明治流星雨」・・幸徳秋水と大逆事件
 D「不機嫌亭漱石」・・漱石、修善寺の大患 という具合です。
 文学的事件をモチーフに、個別の事件や人物を知っていてもわからない同時代性、つまり『明治という時代』が精緻な絵と考証とともに重層的に描かれ、完結まで10年を要した大作です。高橋源一郎の明治文壇関係の新作が、これに大きく影響を受けている(早く言えばそのまま)という書評をどこかで読みましたねえ。私としては、Cを読んで「大逆事件」の歴史的位置が改めて理解できました。

 90年前後の関川夏央には名随筆が多く(「森に降る雨」「水のように眠る」「家はあれども帰るを得ず」など)、シリーズ中にも単行本などから一部収録されています。このごろは朝鮮半島問題から司馬遼太郎研究まで語る大物評論家となってしまい、この時期のような完成度の高い独特の美文があまり読めないのは少し残念なことです。

 最後に新作小説をひとつ。
 北村薫「街の灯」は、昭和初期の上流階級を舞台に、お嬢様とお抱え女性運転手との謎解きをつづった連作で、「夜の蝉」「秋の花」など『円紫さんと私』シリーズ以来おなじみの、凛としたまっすぐな少女が魅力のミステリです。
 北村薫は読後感がすばらしく良く、そのまっとうさが物足りない人もいるかもしれませんが、時には人間の善意や努力だけではどうしもうもない運命や時代のめぐり合わせの悪さ、苦さを滲ませます。この作品の中でも、なにもかも恵まれたお嬢様はそれに気づきつつあります。シリーズは続行中であり、2.26事件など、すぐそこにせまった大きな事件を名手がどう見せるか、楽しみにしています。

 ・・・もう15年前の「昭和」も歴史となっているのでしょうか。


Copyright©hectopascal All rights reserved


Home