菊岡検校の「御山獅子」について




菊岡検校の「御山獅子」について、伊勢お蔭参りの流行と関係だろうか、という面白い意見を読んだので、ちょっとこの観点から考察してみたい。

文政のお蔭参り(1830年)との関連は、「御山獅子」の詞章初出が文化11(1814)年刊の『新大成糸の節』であることから、直接的には否定できる。しかし、お蔭参りは60年周期の「おかげ年」というものがあったので、たとえば明和のお蔭参り(1771年)を考えることはできるかもしれない。

歌詞だけ素直に考えれば、この曲は伊勢神宮の神域である神路山の春夏秋冬をうたったもの。ではちょっと深読みしてみる。

お蔭参りは着の身着のまま、なにかに憑かれたように突然伊勢に行ってしまうという、なにかちょっと考えられないような集団行動だったらしい。伊勢に行く人、行けない人、いろいろあっただろう。お座敷音楽として、その追体験、もしくは疑似体験ができる曲の需要があったかもしれない、件の意見はその観点を提示していた。

そして、この曲が「獅子物」であるということも重要なポイント。菊岡より古い時代に全盛期があったものであって、菊岡検校が何も考えずにそうした様式を採るだろうか、ということ。

菊岡検校が古い様式、形式を採るときには、必然がある。古い大阪手事物の形式の「楫枕」、もっと古い時代の規範曲の様式であった長歌物の「竹生島」、など。

御山獅子が獅子物である必然性について考えてみる。とりあえず、伊勢の大神楽に獅子の芸能があったこと、歌詞にも「獅子の舞ぞ」とか「神楽を奏し」などあるので、まあ、一応それでも説明はつくのだけれど、それだけで「獅子物」の体をとると考えるより、上述のお蔭参りの集団ヒステリー的雰囲気を描写するにも、獅子物の一種異様な熱量がふさわしいと考えた可能性はないだろうか。

そう考えると、単に「獅子物」というよりも、「獅子物の姿をした何か」ということになってくるかもしれない。ちょうど、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」のように、素直に受け取るもよし、皮肉と受け取るもよし、来る未来への不安と受け取るもよし、という方が、なんだか楽しそうではある、とは思う。



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