様式内での「仕掛け」から個性の発露へ
〜光崎検校「夜々の星」を中心に〜




さて、石川勾当、菊岡検校らの天才たちが松浦の後に続き、京風手事物の様式は熟成されていきました。この時代に共通して言えることは、なんといっても八重崎検校の存在で、彼がほとんどの曲の箏手付を行うということは、作曲者側も、八重崎の手の内を知り、「さあ、こう仕掛けてみたよ、どう手付する?」というような感覚があったと思います。菊岡検校の場合においては、箏手付は作曲と同時進行的な部分もあったのではないかと推測されます。これはのちの世代への大きな示唆になったと思われます。といいますのも、幕末の光崎検校、吉沢検校、幾山検校、彼らの特徴は、地歌作品において、自ら箏手付をしていることです。吉沢検校に至っては胡弓手付や作詞まで自ら手掛けた完全自作の作品まであります。

光崎検校の場合は、箏の師である八重崎検校が箏手付をしたものもありますが、たとえば「七小町」は、光崎の初期作品と推測されます。かなり個性的であるとはいえ、形式面、様式面において、松浦検校が礎を築いた京風手事物の範囲内であるからです。詞章初出が文化11(1814)年(光崎が検校に登官する以前!)というところからも、それは裏付けられると思います。

さて、こういったように、次第に箏手付をも含めた作曲が行われるようになったのは、松浦や石川の作品が、たとえ箏手付が念頭にあったとしても、やはり三絃本位であったことを示すと同時に、そうした前提でも創意に満ちた箏手付を行った八重崎らの手腕も想像以上の大仕事であったということを示しています。そして、菊岡検校作品の多くは、もう八重崎がパートナーですので、上述したように、同時性をもって作曲されたか、そうでなくとも、八重崎の手付の作風を念頭に置いて作曲できたということがいえると思います。

では、幕末において、箏手付まで自分で行うということは、どういうことであったか。菊岡と八重崎のコンビによる一連の作品における、その前の時代とは違う効果をはっきり認識し、総合的な視点から、作品を創作しよう、という意識が芽生え始めたと考えられます。これは、もちろん作家意識の高まり、ということも言えますが、それ以上に、作品において今までになかったような表現を可能にしたとも言えるのではないでしょうか。

光崎検校には「夕べの雲」という作品があり、この作品は箏組歌の「菜蕗」と打合せ(同時演奏)ができるように作られています。これはちょっと考えてみてください。かなり画期的なことです。打合せ作品はそれまでにも作られていましたが、箏組歌同士、あるいは地歌曲同士、ということでありました。「夕べの雲」は、当たり前ですが、八橋検校の作曲した箏の手に合奏できるように作曲されました。これは、三絃曲が主流になって以来、三絃の手に合わせて箏手付が行われる、ということのまったく逆、三絃手付、とでもいえる事件です。「夕べの雲」自体の作曲年代は残念ながらわかりません。ただ、こうした発想は、地歌において自ら箏手付も行うことと不可分のことだと思います。

本当に前置きが長くて申し訳ありません。それでは「夜々の星」を見てみましょう。この作品は、上述のとおり、光崎検校が箏を含めて自分で作曲した作品です。そして、従来の京風手事物様式はおろか、「七小町」などの自作と比較しても、かなり規格外な点が散見されます。これは作曲方法と無縁ではないでしょう。つまり、自分以外の者には、こうした規格外の作品は、まず理解するだけで時間がかかり、箏手付を他者が行うというのは、実際的に見てかなり無理があるのです。

まず、形式面から見てみましょう。

前唄-手事[マクラ・本手事・チラシ]-後唄

という構成自体は珍しくありません。しかし、本手事がまず異常に長いです。よって、これを二段にわけて考えられることもあります。それでも長いことには変わりません。また、三絃の替手を入れることもできるように作られていますが、その場合、本手事から砧地、二段目から「三下り六段」の二段目を倍間で合わせます。つまり、こうした替手とも合奏できるように手事は作曲されているわけです。

そして本手事の入り方、これも「宇治巡り」の小論で述べた、典型的な京風手事物の様式、つまり、追い拍子(箏が先に出て三絃が裏を刻む形)で開始される形ではない、ということも際立っています。マクラから本手事への入りは、ですから、テンポの緩みと、再開でしか感じ取ることができません。そして、これは、従来にもあったことではありますが、マクラ部分で、短いながら追い拍子を形成している部分もあり、手事を自体を従来以上に一つの部分として考えて作られていることがわかります。

さて、ここで宮音の位置の移動の話、つまり転調のことを少しだけお話します。転調には調絃の変更を伴わないものと、伴うものに大別されます。この違いは、前者はあくまで一時的な転調であって、すぐ本来の宮音に戻るから、調絃の変更までは行わない方が、より実際的である、ということにあります。逆に言えば、後者は、基本的な宮音の位置が根本的に変わることを意味します。

地歌においては三絃本位ですので、主に三絃の調絃と関連付けられて箏の調絃も行われます。たとえば、基本的な形を例示しますと、

本調子→二上り→高三下り

さて、ここでは宮音は、それぞれ「一」「イ一・1」「一」と移動します。これに対応するためには、基本的に箏の調絃は

半雲井調子→平調子→中空調子

ここでの宮音はそれぞれ「二(七・為)」「一(五・十)」「三(八・巾)」となります。ただ、あくまでこれは基本的な例の一つであって、一時的転調が顕著な場合は、それに対応するために箏の調絃は細かく変動します。極端な例が「八重衣」で、三絃は本調子で通すものの、長い一時的転調が頻繁に行われるため、押し手では対応できないため、箏の調絃は頻繁に変更されます。

その他、三下りについてはもう少し複雑な性質があるのですが、それは後で見るとして、上記の典型的な例から何が読み取れるかを見ていきましょう。

地歌はあくまで相対音高ですので音名では表記しにくいですが、ただ、右への調絃変更は、常に宮音が完全五度上へ移動しています。三絃は基本的にこの調絃変更は不可逆ですので、ここから、ある一般的な表現要素が生まれます。つまり、完全五度上への宮音の移動は常に「未来」なのです。それは付随して「憧れの気持ち」「期待」といったものと結びつきます。逆のことを考えてみましょう。仮に左へ調絃変更した場合、宮音が完全四度上へ移動することを意味します。しかし上述のとおり、基本的にこれは一時的転調にとどまり、三絃の場合調絃変更は伴いません。つまり、完全四度上への宮音の移動は常に「過去」なのです。それは付随して、「回想」「不安」といったものと結びつきます。

そのことと、そして箏も光崎自ら作曲したということを念頭に、ざっと「夜々の星」を見てみましょう。

まず、三絃は三下り、箏は四上り半雲井調子という、ちょっと珍しい調絃で始まります。これは上でちょっとだけ触れた、三下りの複雑な性質からきています。京風手事物においては、基本的には上述のとおり、三下りの時は宮音は「一」なのですが、「1」を宮音とする性質もまた持っています。

当たり前のことですが、基本的に宮音で曲は終わります。三味線組歌や長歌、古い端歌ものなどの場合、三下りに限らず、本調子でも「1」での終止がかなり多いのです。この性質を三下りは特に強く受け継いでいるようです。と言いますのも、三下りの調絃を考えてみてください。基本的には「一」が宮音、そして「イ一」は完全四度下、つまり完全五度上と同意、「1」は完全四度上、となっています。このため、基本的な三つの調絃のなかで転調がとりわけ容易なのです。おそらくそのことが、作曲する上でも反映され続け、こうした特性が残った一因ではないかと考えます。

また、それ以上に大きいのは、音階構造と、楽器の特性の両面です。宮音への終止は、上へ行く場合は長二度、下へ行く場合は短二度の音からそれぞれ終止します。つまり、開放絃への終止で考えると後者の場合、「イ二・二・2」から「イ一・一・1」へと終止することになります。音階構造の話をするとかなり長くなりますので、これもまた別の機会でするとして、ここで問題になってくるのは、本調子、二上り、三下りの中で、「イ二・二・2」から「イ一・一・1」への終止音形だけで確実に宮音が変更されたといえるのは、三下りでの「2」から「1」への終止だけなのです。その二つの音だけで宮音が移動してしまうわけですから、つまり、「1」の比重がかなり高くなります。

そのため、三絃が三下りの時には、中空調子だけでなく、雲井調子も使われたりするわけです。この曲で「四上り半雲井調子」という調絃を箏が採用していることはどういうことか考えてみましょう。

そしてそれを早くも示すように、この曲は三絃は「1」で始まります。さらに、「玉櫛笥、再び三度」のあたりでは、宮音は「1」と「一」の間をさまよいます。

そして、「書きつけて」の後の「合」、ここはかなり旋律的に複雑に絡み合っていて、三絃と箏を一人で作曲したのだなあ、ということが少し思い出されます。

とかくするうちにも、やはり宮音は「1」と「一」の間で揺れ動いています。上述のとおり、完全四度上への宮音の移動は不安などを表します。「二度も三度も思う事を思うがままに手紙に書いて送る」という時の読んでくれるのか、という気持ちと、現在の状況の表現です。

「刈るてう底の海松布にも」で三絃は本調子へ。依然不安定ではあるものの、これは一種の気持ちの変化です。本調子においては、三下りほどには完全四度上への宮音の移動は簡単ではないからです。これを読み取らなければなりません。そして、箏が四上り半雲井調子という調絃だということもここで考えてみましょう。

後で全体を見てみればわかりますが、主人公はかなり前向きというか情熱的というか、気持ちをまっすぐにぶつけるタイプです。少なくとも光崎の作曲ではそれが表現されています。つまり、いつまでも不安を感じて嘆いているような人ではないのです。ですから、基本的には本調子の三絃に合わせる箏の調絃である半雲井調子をベースに、それでも無視できないほどには現れる四度上への宮音の移動へ対応するために、四(および一)を三絃三下りの「1」にあわせ、こうした特殊な調絃にしたわけです。

さて、「刈るてう底の海松布にも」で三絃が本調子へ調絃変更した後を見ていきましょう。とにかく、完全五度上への宮音の移動が異常です。その見分け方です。一時的転調は、上述したような「イ二・二・2」から「イ一・一・1」への終止音形ではない形、すなわち、たとえば、「イ三・三・3」が目安です。そして私もそうなのですが、みなさん、「イ二・二・2」のツボをしっかり低く、と注意されていることと思いますが、これは調子っぱずれになるというだけではなく、隣接した「イ三・三・3」のツボがこのように一時的転調のサインのひとつであるので、作曲者の音楽的意図がボヤけてしまう、というとても重い理由があるということなのです。

さて、本調子では、基本的に、「6→5」とか、「二→一」のオクターブ上である「二・→一・」もたくさん出てきますね。逆に言うと、ここでも一時的転調のサインは、隣接するツボである、「7」や「三・」などです。あるいはそれと同じ音程の全てのツボです。こういったサインが本調子で出ている場合、宮音は一時的に完全五度上へ移動しています。そして、完全五度上ということは、「三」や「7」から短二度上の音、「四」や「8」もサインになることは推測できますね。ただし、これらの場合は、長二度上昇して終止する場合、完全四度上への宮音移動の音形となります。ですから、あくまでペアの音形、たとえば、「四→三」や、「8→7」となった場合のみ、完全五度上への宮音移動を意味します。

「夜々の星」ではあまり出てこないのですが、他の曲の演奏時の参考に、完全四度上へ一時的に宮音が移動しているサインを示してみます。まず、三下がりでの「2→1」と同じ効果を持つ「六→五」がそうであることは、今まで述べてきたことでお分かりいただけると思います。で、「五」に下から上へ終止する場合は長二度ですので、「四→五」も同じく注意するべき音形です。つまり、本調子で完全四度上への一時的な宮音移動のサインは、「六」のツボ、あるいはそれと同じ音程の全てのツボです。そして「四→五」という音形とその同じ音程のツボです。「四」だけだと、上述のとおり、完全五度上への宮音移動でも出てきます。「四→三」だと完全五度上、「四→五」では完全四度上、と、ペアで判断することが必要になります。つまり、単独での「四」や「8」の音は、とてもアンビバレントです。それを意識して作曲することももちろん多いわけです。ちょっと最初は難しいかもしれませんが、この感覚を体にしみこませることは重要です。

箏の場合は、曲によってなにしろ調絃がさまざまですので、これらの三絃のツボの音程を箏で出す場合に注意してください。隣接する音、ということは、多くの場合押し手を伴う、ということです。

以上のポイントを念頭に置いて、「刈るてう底の海松布にも」からの音楽をあらためて演奏するなり、鑑賞するなりしてみてください。この後の「合」ではやくも「7」が出てきますね。そして、この音が出た場合に「2(ここでは「八」)→1」は完全五度上への宮音移動を意味します。ここでは「見て」もらえるか、もらえないか、まだ歌詞は出ていませんので特定できないものの、主人公の気持ちはあくまで前向きであることが伺えるのです。

まあ、まだこの段階では「触れぬを痛み」と始める前にすぐに本来の宮音に戻ります。しかし、本来ならば、ここは「六」などの音が出てきてもおかしくはないようなもの。あくまで現在の状況を冷静に見据えるにとどまっていることが伺えます。それどころか、その後は「二△五c二一」の部分が本来の宮音であるくらいで、「頼みにし」の後に、「イ一 二 スC 一 一イ四Cイ一イ四 一」で本来の宮音に戻るまで、ずっと完全五度上へ宮音が移動しています。歌詞を素直に解釈するよりもはるかに、この主人公は情熱的にあこがれを持っています、少なくとも、光崎検校はそう解釈して作曲しているということです。その後も「筆にさへだに」あたりまでは、上述のサインを読み取ってください、憧れの気持ちでいっぱいです。さすがに「恥ずかしの」でいったん本来の宮音に戻り、現在の自分に戻るのですが、こういうところが非常に面白いですね。

その後の「合」はですから、想いが募ったあと、冷静になろうと努めている様子ですが、気持ちとはままならぬもの、本来の宮音にもどるところでテンポを緩めても、その「合」では転調こそしていませんが、やはり想いが高揚していく様子が伺えます。「軒の荵に消えやすき」の「消えやすき」の前では一瞬その高まりが「三」などでピークになりますが、「消えやすき」でちょっとまた冷静になります。しかし、本当にこの主人公、我に返るところまでなんですよね。それでもやはりちょっと落ち込む瞬間はあります。「露の身にしもならまほし」の前の部分で、「六Cつ五 ス ス」と一瞬だけ。でもその「[五ス]」から、すぐに長二度上昇音形で「五1 2」と立ち直るのです。

さらには「ならまほし」の部分では、完全五度上へ宮音が移動します。さらにもっとすごいことは、「ならまく星の光すら」からは、箏が調絃を一瞬変更します。なにしろ、手事ではすぐにもとの調絃に戻すのですから、ただ事ではありません。確かに、この部分は異常なのです。これは完全に二上りでの旋律です。つまり、確定的に宮音が完全五度上へ移動しています。その上にさらに完全五度上へ移動します。それが「ならまく星の光すら」の直前の部分です。

それだけではなく、「♯八」や「♯8」を含む旋律、しかもその場合に「9」や「九」が出てくる場合、完全五度上のさらに完全五度上へ宮音が移動していることを意味します。この主人公の感情の高揚の尋常ならざる様子を描写するのに、三絃でこういった転調をしていくのにもう箏は対応できなくなっているわけです。これは箏の押し手で対応するにはきついものがあります。しかし、あえてそのような作曲法ができたのも、自身が箏を含めて曲の構成を創作できたからでしょう。ここにも箏を含めて作曲した意味が出てきます。

さて、改めて思い出しましょう。この部分はあくまで本調子であることを。普通であれば、前唄はその調絃の宮音で終止します。つまり、本調子であれば「一」です。ところが、完全五度上への転調を二回重ねてしまったほどの想いの高まりは、鎮めることなどできなく、なんとそのままの状態で前唄を終えるのです。何度も繰り返しますが、ただ事ではありません。

先ほど述べました通り、これは本来二上りでの旋律です。仮に、二上りに調絃を変更していたとして、それでもその時の宮音は二上りでの「イ一・1」なのです。つまり、二上りに調絃を変更していたとして、それでも宮音が完全五度上へ移ったままの状態なのです。つまり、二上りでの「一」、本調子ですから、ここでは「三」なのです。この部分の箏を見ていただければわかるとおり、調絃変更したというのに、押し手の連続です。本来ならもっと根本的に調絃を変更する必要があるわけです。しかし、そうはいかない理由があります。

さて、そのようにしてただ事ならない思いのたけを表現して前唄が終わった後、手事に入ります。手事に入る直前から、三絃は立て続けに「イ一一ヶ」という手を出します。私が思うに、この部分こそ、光崎が箏を含めて作曲した真骨頂であるといえるでしょう。本来この手は、平家琵琶に由来するもので、本当に三絃の「聴かせ所」で使うもの、こんなに立て続けに出す意味を私なりに考えてみますと、手事の入りの部分、これは箏が主旋律と考えると、とてもしっくりくるのです。いわば、「三絃手付」です。手事の直前からの箏の手を見てみます。

「ヲ巾 為 ▽オ 斗 斗」

これは、三絃が二上りの時の宮音、「イ一・1」へ終止する典型的な旋律の一部です。この後に「十」がくれば、二上りでの宮音への転調は達成されます。いや、ここは本当は本調子なのですが…。それでもいきなりそこへは持っていけませんから、こうした音形を出してくることは自然な流れです。念のため、上記の箏の音形の直前から見てみましょう。

「巾為 ヲ斗為 ヲ斗 +九 三 ◎ ◎ ◎ ◎ 八 ○ ○ヲ巾 | (ここよりマクラ・大間)為 ▽オ 斗 斗」

非常に見事です。まず、二回転調を繰り返したまま終わり、巾のヨワオシから、まず一段階元に戻る、つまり二上りでの宮音である「イ一・1」、箏でいう「十」への移動のプロセスを、旋律的には、完全に箏に委ねています。三絃も基本的には同じであるとはいえ、こうも連続して「トテ」と入ると、旋律的には不十分です。あくまで箏の補助に徹していると考えるといいと思います。

では、上述の三絃の「トテ」の三連続はなにかというと、現実へ引き戻されるショックをなにか主人公は感じているということではないでしょうか。純粋に音楽的な部分は箏が、そして心情描写的な部分を三絃が、それぞれ担っていると思われます。そして、本調子から考えて、完全五度上へ一段階もどり、そのまましばらく推移するのですが、これは箏の調絃を元に戻すのにも役立ちます。そして音楽的にもいつまでもそのままではいられない、

三絃は
「イ一ヶ 4 C 5 ◎ 2 ◎ 1」
箏は
「オ斗 ◎ 為 ◎ 斗 ◎十 ◎」

の、前述のマクラでの追い拍子でまずここへの転調を完了し、箏のウラレンからに導かれて、三絃の本調子の本来の宮音へと戻ります。しかし、この曲全体で考えて、かなり前向きで情熱的な主人公も、さすがに現状を忘れた夢想に浸り過ぎたと反省したか、さらに完全四度上へ宮音を移します。三絃は「9」のチンリンリン、箏「四九△オ八九」からの部分です。これは、本調子に三絃が調絃を変更して以来、際立って長い完全四度上への転調です。さすがに落ち込んでいるのでしょうね。なんとか本調子での本来の宮音へ戻り、テンポを緩めてマクラが終わります。

改めて、マクラを見直してみましょう。異常なほど憧れの気持ちが募り、それは唄部分ではついに冷めることはなかった。「夜が明けて、星の光さえ」と。しかし、ここで、しだいに冷静になっていきます。このまま感情が高揚したままでは人間は危険です。音楽上から見てもこんな異常な状態が続くのは健康によくないですね。次第に冷静になっていくにつれて、あまりの異常な興奮を恥じ入ります。光崎の描いたこの主人公の性格からすると珍しいことに、かなり落ち込みます。そして、気を取り直し、興奮もしておらず、落ち込んでもいない、平静な状態にもどる。これが、マクラ部分で描写されていることです。

では続いて、本手事を見ていきましょう。上述したように、追い拍子では始まりません。光崎は、伝統様式をただやみくもに無視したのでしょうか? そうではありませんよね。マクラで表現されていたことを考えれば明らかです。京風手事物の従来の作品は大部分、前唄の気分を引き継いで手事に入ります。しかし、この作品では、感情の振れ幅のメーターがゼロの所に戻っています。推進力は不可欠な要素です。

そこから逆算してみましょう。確かに音楽の流れは大切にしなければならない。完全に途切れさせるのは論外です。しかし、この作品の本手事は、通常の作品より、より静けさより、次第に推進力を増大させる、ということを考えることが必要でしょう。

そして、本手事を宮音の位置という観点から見てみましょう。前唄から考えると、考えられないくらい、本来の宮音のまま推移していきます。前唄で本当に表現の限界寸前まで感情表現をした後で、クールダウンとしてこの作品の手事にマクラは必須であったし、そこから曲を進めていくにも、とりあえず安定した進行が必要であり、さらに、それにはとにもかくにも、勢いをつけて、現状我に返った主人公の描写を始める必要があったため、本手事を追い拍子で始めることはしなかった。京風手事物の様式から考えて、いかにも破格であったものが、あらためて必然性を伴ってくるわけです。

さて、光崎検校がこの主人公をどのようにとらえているかは、今まで見てきたとおりです。いつまでも現状を見つめているだけではないですし、ましてやそれを嘆き悲しむというようなタイプでもない。やがて宮音は完全五度上と、本来の位置とで揺れ動き始めます。そこからの展開はかなり複雑になっていきます。感情の起伏は次第に大きくなっていき、掛合いを経て、

三絃
「9 ◎ 1・ ◎ 4・ C 5・ ○ 6ス 」

「七ス八 九ス 十 オ斗ス オ斗ス オ斗ス 為」

に至り、その後三絃は転調を繰り返しながらのスクイ撥の連続に入り、箏は最初それを装飾しながら、終盤はやはりスクイズメを多めに取り入れるようになります。ここの部分の転調を見てみましょう。まず基本の宮音から始まり、完全4度上への転調、やや強引に宮音を戻し、次は完全5度上へ宮音を移動。ここでまず一息。ここが三絃は「7・」でのチリチリリン、箏は「巾斗△オ 為 巾」の部分です。そして、この後は、更に完全5度上へと宮音を移動します。前唄の最後の部分を同じ状態です。それから一段階元に戻り、つまり本来の宮音から完全五度上へ移動した状態へ戻り、掛合いに入ります。

この掛合いは、現状、完全五度上へ宮音が移動した状態と、本来の宮音への移動しようとする働きのせめぎあいです。かなり異質に聴こえるはずです。三絃でいうと「1」と「五」の、箏でいうと「十」と「九」の二音でしばらく掛合いが進みます。この二音だけでは宮音がどちらとも判別ができないのです。あれだけ短い中で転調を繰り返した後で、このような不安定な状態を作り出すのは、主人公の心情を考える上で非常に示唆に富んでいます。

その最たる部分が、「2ス2C1ス1」と三絃が出た後、箏が「三ス三 四ス四」と受ける部分、ここでやっと判断材料が出てきて、ああ、まだ完全五度上に宮音はあるのか、と思わせた直後、「七ス七 五ス五」と三絃が出て、「あれ?」と思わせた後、それを受けた箏の「ヲ七スヲ七ス 七」で唐突に本来の宮音へ戻るのです。

音階構造の話をしなければならないのでここでも詳しいことはまたの機会にいたしますが、宮音が「1」にあると仮定した場合、「五→七」は上述の説明通り基本形としてありうるのですが、「七→五」というのはあり得ないのです。いってみれば、ここで転調は始まっているわけで、ざっとまとめると、頻繁な転調が連続したあと、宮音を確定する手がかりが無い掛合いに入り、やっと「1」で確定したと思ったら、すぐさま転調し、本来の宮音「一」へ戻る、ということになります。しかも意地の悪いことに、「6ス6 5ス5」と普通に三絃が出した後、今度は宮音が三絃の「一」の時にはあり得ない「四ス四 五ス五」と箏が受けるのです。これは基本的に本来の三絃「1」が宮音の時の音形。そして「2ス2 五ス五」と、また宮音を推定するにはあやふやな音形を三絃が提示し、次の箏の「ヲ為 [七八]ス 為」で今度こそやっとのことで、本来の宮音が確定します。

歌詞はありませんが、実に緊張感に満ちた部分が続くわけで、むしろほぼ心情の高揚一直線だった前唄より、もっと繊細な心の揺れ動きを絶妙に表現しています。ですから、この部分の後を受けた部分での、三絃と箏の非常に複雑な絡み合いは、これらを受けた必然の上に成り立っています。これもなにも無意味に複雑な合奏を実現しようとしたわけではないわけです。

速度を緩めて、三絃は「2」のチンチリレン、ツルツルツンから、箏はトンカラテン、ツルツルテン、から始まるのが「二段」とされています。この部分は、上述のとおり、「三下り六段」の二段目を倍間で合わせられるように作られています。掛合いの部分からは替手となりますが、打合せができるように作曲されているためか、転調面から考えると、その掛合いの部分まではとても穏やかなものです。しかし、ここで光崎は別の側面を見せます。この部分の複雑極まりないリズム書法は、ここまでの部分では転調面から主人公の心情を描写していたものを、今度は別角度から敷衍しようとしているように思われます。

そして掛合いの部分に移ります。ここの妙味もやはり光崎一人が全体を構想したこととも無縁ではないでしょう。菊岡・八重崎コンビの掛合いも非常に面白いものですが、後者の「さあ、どう応えてくれる?」というような、臨場感とはまた違い、計算しつくされた巧妙さが感じられます。

そしてチラシでまた箏の調絃が変更されます。「二段」に入ってから基本的に本来の宮音中心であったものが、 ここで突如として大きな転調をします。本来の宮音から完全五度上へ移ったものを基本とし、本来の宮音に移る部分を本当に微細に織り込んで、手事のクライマックスを築きます。

初段では、憧れ、ゆかしさ、そういったものへどんどん高揚していった前唄とは異なり、転調面では静かに始まるものの、次第に高揚し、比較的短い部分で複雑な転調を繰り返すという手法によって、二段では転調面では静かでも、複雑極まりないリズム書法によって、掛合いからは、精緻な合奏書法によって、絶望感と、いや、なんとかこの思いを、という情熱、その複雑極まりない錯綜を、それぞれ描き分けている、ということになります。チラシはそうした心の揺れ動きを経た後に、ようやく主人公本来の前向きな情熱を全面に打ち出すことで、後唄につながります。

後唄を見ていきます。「絶えて文なくなるまでも」の部分、基本的に完全五度上へ宮音が移っている状態を受けていますので、「1 ス」と始まるのはいわば必然です。この部分も細かい転調を含みます。

「八夜九夜と」からは、歌詞の方も感情が高揚していきます。それに呼応するかのように、三絃は二上りに調絃変更し、完全五度上へ宮音を確定的に移動します。さまざまに調絃を変えてきた箏も、ここに至り、平調子になります。「雲井を眺め」からは唄もオクターブ上がり、感情の高揚も最終局面に近づいてきます。「術を無み」からはテンポもアップします。後唄では速度が上がることは珍しいことではありませんが、この作品のように、急速な変動を伴うものは稀です。もちろん、光崎検校が理由もなく様式から外れることをしたわけではないことは、もうお分かりだと思います。もうこれ以上感情の高揚は表現する手段は残っていません。「袖の雫の堰入るる」の部分では、それでもダメ押しとばかりに、本当に一瞬だけさらに完全五度上に宮音が移動します、が、テンポが戻るとともに、宮音も二上りの本来の「イ一・1」へ戻ります。

この情熱的な恋の歌は、「硯の海に、玉や沈めん」と、歌詞のとおりに魂を落ち着けて終わります。

最期に、全体を振り返りましょう。上述の記述がやや難解と思われるならば、このまとめだけでも、考えてみてください。

前唄では、最初は三下り特有の宮音の揺れ動きを利用し、完全四度上への宮音移動も多く、やや不安の表現が勝っています。しかし、「刈るてう底の海松布にも」で三絃が本調子へ調絃を変更してからは、主人公の前向きな情熱が音楽面では全面に押し出されてきます。ほぼ完全五度上への宮音移動の転調だけに限られるのみならず、「ならまく星の光すら」からは、箏の一時的な調絃変更を要するほど、つまり完全五度上への転調を二重に行うというところまで至ります。この異常なテンションのまま前唄は終わります。

手事に入って、マクラでは、主人公が我に返り、完全四度上への転調を三重に行うところまで至ります。この主人公が一番落ち込んでいる部分です。ややあって持ち直し、気分は平静になります。

本手事は、感情の起伏が平常に戻った部分から始まるので、演奏者の心構えとして、いかに自然に音楽の流れを作っていくか、それがより要求され、始まります。あまりに高揚しすぎた自分を、我に返ってからは、最初は冷静に見つめていたものの、本来持っている気質は、やはり複雑な心の揺れ動きを感じさせます。それは三つの視点から敷衍されます。

1.頻繁な宮音変更を伴う、転調の複雑さによるもの。
2.複雑なリズム書法によるもの。
3.精緻な合奏書法によるもの。

こうして主人公の複雑な心情が徹底して描きつくされた後、箏の調絃変更を伴うチラシに入り、本来の宮音から完全五度上への転調を基本としつつも細かい転調を織り交ぜ、情熱的な気持ちを取り戻して後唄へ入ります。

後唄では、今度は歌詞の面でも感情の高揚が描かれるため、より劇的な作曲法が採られます。まず、「八夜九夜と」から三絃は二上りに調絃変更し、完全五度上へ宮音を確定的に移動、三絃はあまり調絃を変更しないが、実は転調が激しかったことを物語る、さまざまな調絃変更を経てきた箏も、平調子へ。「雲井を眺め」からは唄もオクターブ上がり、「術を無み」からはテンポもアップ。瞬間的に完全五度上へ宮音の移動さえも伴いますが、テンポが戻るとともに、宮音も二上りの本来の「イ一・1」へ戻ります。

そして、「硯の海に、玉や沈めん」と、歌詞のとおりに魂を落ち着けて終わります。

光崎検校が描いた主人公像は、後唄の歌詞から逆算したものと思われます。その非常に情熱的な性格を描くには、従来の様式ではもはや収まりきらなかった。こうして、全体を見てみることで、あらためてこの作品がいかに破格であったか、そしてそれは必然であったということもわかります。いわば、作曲者の生の声が、従来よりはっきりと感じ取れるようになり、それはもう、京風手事物の様式の限界ぎりぎりのところまで来てしまっていたのです。

光崎検校、吉沢検校が、すぐれた地歌ものを多数作曲していながらも、筝曲へも手を伸ばしたのは、復古主義ではないでしょう。新たな形式模索の手段であった、と考えると、やはり徹頭徹尾、革新の人たちであった、と言えると思います。



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